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泉州岡田宮本やぐら秋祭り
やぐら〜な話
 
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やぐら〜な話・・・
やぐらに関する面白いことや気になることを書きとめるコーナーなのですが、とりあえずは資料などを元に書いています。しかし推測が混じったりするので話半分と思って読んでください。間違っても反論などしないでくださいネ、多分答えに窮すると思います(笑) 「こんな面白い話があるよ」って方は内緒で教えてください。ひょっとしたら掲載させてもらうかもしれません。

 
 
※やぐらの始まりはいつ?其の一

※昔から喧嘩はあった


※やぐらの始まりはいつ?其の二

※やぐらの始まりはいつ?其の三

※シャーンシャンってなに?

※やぐらに欠かせない大事なもの
※やぐらの始まりはいつ?其の一

まずは、やぐらはいつからあったのか?曳かれていたのか?誰しも少しは知りたいと思ったことだと思います。よく言われているのが京都八坂神社の祇園祭の山鉾が伝わり、だんじり・やぐらになったと・・・確かに祇園祭を手本にした山車祭は日本各地にあります、祇園祭は素戔嗚尊・牛頭天王を祭神とする神社の祭りであって、里外神社も素戔嗚尊が主祭神なのでルートとしては祇園祭からの伝播と考えられないことはありません。しかしさらに言うとその山鉾の源流は天皇が即位のときに行う大嘗祭(おおにえのまつり)に曳かれていた標山であるとか、また一説にはインドのオリッサ州の祭礼ラタ・ヤットラ祭の山車が山鉾のモデルになったという記述もあります。

おお!やぐらやだんじりの元はインドにあるらしいです。いや〜まさかインドだとは思いませんでしたネ。いやいや、ひょっとしたら天皇の行う行事の標山曳きの流れをくんでいるかもしれません。だんじりも石などを運ぶ修羅がルーツだという説がありますし、ルーツをたどって行くと似ているからという事でそうなるらしいです、そういうルーツを調べるのも大事なことかもしれません。しかしながら山鉾も標山もインドの山車も我々のやぐらでもないし祭ではありません。岸和田のだんじりの始まりが長持ちにコマを付けたもので、岡部三代長泰公が元禄十六年?(1703年)に五穀豊穣を願って、この祭礼日だけはお城に入ることを許したことから始まりといわれています。そこで我々のやぐらの始まり、成り立ちを、もう少し身近な確証のある資料から推測してみたいと思います。

やぐらの成り立ちのヒントになることが、
(岡田浦陸喧嘩ニ付取曖被仰付候扣 梶本氏)と書かれた書冊の中にあります。岡田の浦方と陸方が喧嘩をしたことを書いているのですが、その中に下記のような記述があります。

(原文) ○は不明な文字
天保五年癸牛九月 岡田浦陸喧嘩ニ付取曖被仰付候扣 梶本氏
・・・文政九丙戌年九月二日祭リ挑灯竪ヲ陸方ヘ倒シ浦方○彼是申○初願出候節、段々詫候故一札ヲ陸○浦方北組ヘ入相済候事、右ニ付此度又々豊作ニ付双方
太鼓台宮入申合候処、・・・

(解釈)
天保五年癸牛九月(1834年)岡田浦方陸方の喧嘩の一件 梶本氏
文政九年(1826年)9月2日の祭りに、岡田村の陸方の若者が「挑灯竪」(挑灯立)を倒したことから、岡田浦方北組と争いになり、この時は、「岡田村若者共一統親々惣代」が、「岡田浦北組御連中」に以後は若者はもちろんその親も責任をとるとして「誤申一札の文」を入れて落着した。このたびも豊作に付き双方(浦方、陸方)
太鼓台の宮入申し合わせ候ところ・・・

ここに書かれている太鼓台がやぐらにつながるのではないかと推測しています。やぐらと書かれていないところが残念なことですが、この後に別件の喧嘩の一件でも太鼓台が出てきます。この太鼓台が貝塚の太鼓台のように担ぐものなのか駒がついたものなのかは分かりませんが浦方、陸方がおのおの太鼓台を所有していて氏神に宮入をするということから考えると今のやぐらにつながるものであり1834年には確実にあり、提灯立を倒した一件があった1826年にも既にやぐららしきものがあったと考えても不思議ではないと思います。

【太鼓台(やぐら)があったと推測出来る年、文政九年(1826年)】 注:始まった年ではありません

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※昔から喧嘩はあった

上記の文に続く記述で大喧嘩があったことが分かります。
(原文)
陸浦北組とハ他村同様ニ付、九月二日浦方ヘ陸ノ太鼓台下ケ海ヘ汐かきニ参リ帰リ候道ヲ明覚寺乃角ニ而狼藉仕候故、陸方○役前ヘ届、夫故浦方年寄堂馬六右衛門殿預リ彼是御座候内、九月三日雨礼四日中組諸勘定仕候処、北組○喧嘩ニ参リ中組之者五人ニ手疵ヲ為負、御上様ヘ御見改ヲ奏願上候処・・・・


(解釈) 注:原文はもっと長文なので省いていますが解釈には含まれています

陸方と浦北組は他村同様の関係であることから、天保五年(1834年)9月の祭礼に、再び喧嘩が起こりました、先年の遺恨試合(提灯立を倒した一件)の気味を帯びて再燃する。すなわち、その9月2日、陸方の若者の太鼓台が海へ潮かきに下り、その後氏神へ参ろうとしたところ、明覚寺の北角に浦方北組の太鼓台が居座って通行を妨害したので陸方は役前(役所、役人)に届けた。それでこの件は浦方の年寄「堂馬六右衛門殿」の預かりとなったのである。
しかし。4日には陸方中組が祭礼の「諸勘定」をしているところへ、浦方北組のものが殴り込みをかけて、中組のもの5名に怪我をさせた。この時の怪我はかなりのものであったとみえ、医師に二百目の治療費が支払われている。今回の喧嘩の非は浦方にあった。そのため、「岡田浦北組若者惣代」と「中老代」は「陸方若連中代」に、道路妨害などしないと一切の非を認め、「誤り申一札の文」と詫状を入れている。

我々の先祖、先輩たちもなかなかパワフルでエネルギッシュであったと見え、祭りとなると酒を呑み無茶をしていたようですね。陸方の太鼓台が汐かきを終えて宮さんに参ろうと上がってきたら浦方の北組太鼓台を明覚寺の北側角にデンと置いて通らせないように邪魔をしたってところは、お互いがにらみ合って「通せ」「通さん」「どけろ」「どかん」と言い争った場面が目に浮かんできます。その2日後陸方中組5名に怪我をさせた治療費二百目とは今のお金にすると簡単な換算では大体20万位と考えたら良いらしいです。まぁ、この一件に関わり処理をした堂馬六衛門さんは大変だったことでしょうね。ご苦労様でした。聞くところによるとつい先年までは秋祭りになるとやぐら同士を突っかけ、逃げると追いかけ、相手の彫物を折り、やぐらを破壊していたらしいです。今では考えられないことだったらしいです。

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※やぐらの始まりはいつ?其の二

「清明寺代々記」の中に非常に興味深い記述があります。まず「清明寺代々記」とはどのような書冊なのかを下記に説明します。

正確には「日輪山清明寺代々記井谷古記」
清明寺代々記は泉南市新家にある浄土宗日輪山清明寺に所蔵される書冊で、清明寺の第25代精蓮社忍誉愍阿卍中円澄(しょうれんじゃにんよみんあまんじちゅうえんちょ う)が明治五年五月末以降の頃に新家地域に残された記録、文書類を丹念に調べ克明に記述したものである。円澄が「清明寺代々記」の中で扱った記録、文書は鎌倉時代後半期の13世紀末から戦国時代末期の16世紀末までの約300年間のものであり鎌倉末期以降の新家地域の歴史を追跡するには第一級の資料である。(現存する清明寺代々記は新家村の檀家であったと推定される久吉という人の筆写である。)


「清明寺代々記」の中の記述
(原文)
浄誉門澄代附録之事
野口村(五十三丁裏)ハ享和之頃、大い衰微し有之処、文化之末ヨリ人気自然熟決したるや、家々次第に繁栄し、
    ・・・中略・・・
一 、上村荷ない屋形の出来ハ明和四年なり、但シ代銀五百目、尤金物とも、此時若中発頭市作・徳太郎・久治、此度文化三年作事する
    ・・・中略・・・
一、上村引屋形の出来ハ、文化のはしめ福嶋にて買求メ、九月十六日是を引はじむ、若中の発頭ハ弥市・若松


(解釈)
新家の野口村は享和之頃(1801年〜1804年)は大いに衰退していたところだが、文化之末(1818年頃)からは人も増えて作物も豊かにとれ村の家々は次第に繁栄した。
    ・・・中略・・・
一 、上村の「荷ない屋形」は明和四年(1767年)に出来上がりました、その代金は金物とも含めて銀五百目である。この時の若中頭は市作・徳太郎・久治である。此の度、文化三年(1806年)作事(修理?)する
    ・・・中略・・・
一、上村の「引屋形」の出来上がりは、文化のはしめ(1804年〜)で福嶋(阪南市尾崎町の福嶋?)から購入する、九月十六日にこの「引屋形」を引き始めた、若中の頭は弥市・若松である


この「清明寺代々記」に記述される「荷ない屋形」「引屋形」が岡田の喧嘩一件に記述されている「太鼓台」に繋がるものであればやぐらの成り立ちを著しているものという可能性は大いにあるのではないでしょうか、明和四年(1767年)に作られた「荷ない屋形」は恐らく・・ 荷ない→担い の言葉から担ぐものだったのではないかと考えます、その後「引屋形」が出てくるのですが、引きはじむの記述からおそらく駒のついたものでよりやぐらに近いもので、またこれに太鼓がついていればやぐらと言えると考えます。「荷ない屋形」を文化三年(1806年)に作事(修理?)した事と「引屋形」を文化のはじめ頃(文化元年が1804年)に購入したという事が年代的に重なってきます。考えられる事由はいくつかあります、ひとつは「荷ない屋形」を「引屋形」に作り替えた?。ひとつは「荷ない屋形」を修理したが気に入らないので「引屋形」を新たに購入した、または「引屋形」を購入した上に「荷ない屋形」を修理した?「荷ない屋形」を売却し「引屋形」を購入したということもありえます。はたして2台所有していたのでしょうか?、享和之頃(1801年〜1804年)大い衰微・・・とあり、そう豊かではなかったと思われるので2台所有は少々ひっかかるところではあります。

【やぐららしき「荷ない屋形」で祭を行なった年、明和四年(1767年)】 これをやぐらの始まりとすると240年前(2007年起算)
【やぐらにより近い「引屋形」を曳き始めた年、文化の初め頃(1804年頃)】 これをやぐらの始まりとすると約200年前(2007年起算)

上村引屋形の出来ハ、文化のはしめ福嶋にて買求メ・・・この記述によって新たな推測が生まれてきます。「福嶋にて買求メ」となっているのでおそらく福嶋の大工によって「引屋形」を新調したというのが一番自然と考えます。この「福嶋」が阪南市尾崎町の福嶋であれば、またそこの大工が製作したのなら、当時の阪南地域で「引屋形」を曳いて祭を行なっていたことはほぼ確実だと思います。
う〜む、これは阪南地域のことをもっと調べなくてはならないようです・・・其の三が必要なようですネ

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※やぐらの始まりはいつ?其の三

ここでは阪南市のやぐら事情を検証してみます。
江戸時代の古い資料では無いのですが新町に貴重な資料があります。阪南の祭やぐら管理人さんのブログによると新町のやぐら部屋を掃除したときに先代やぐらの資料が出てきたものでその資料は新町のY.Mさんが保存されているとのことです。それには「太鼓台新調費用編成明細」と記帳されてあり大正7年7月19日の日付で大工や彫師、寄附芳名までも記されています。総額1,511円43銭の寄附を集めてやぐら部屋まで含めて1,515円45銭の新調費用がかかったそうです。(阪南の祭やぐら管理人さんより頂いた写真を掲載させて頂きます。)



ここで注目したいのは「太鼓台」という文字です。「岡田浦方陸方の喧嘩の一件」文政九年(1826年)9月2日を思い出してもらうと良いのですが同じ名称の「太鼓台」が出てきています。太鼓台というと貝塚の「太鼓台」のような形のモノを想像していました。それはやぐらとは違うモノ?かと考えていましたが大正期の「太鼓台」と江戸期文政9年の「太鼓台」がひよっとして同じモノだったら!?もし同じモノなら「太鼓台=やぐら」となります。と言うことは我々のやぐらの3先代、4先代、5先代のやぐらが有ったと言える可能性が出てきます。あくまでも推測でのことですがなにか夢がある話では無いでしょうか。



上記は編集中ですので書き替える可能性あります。やぐらについての古い記録や情報などありましたらメールをお願い致します。




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